2010年6月27日日曜日

あなたが死について語るなら?

先日、当院の患者さんだったご近所のおばあさんが亡くなりました。笑顔のチャーミングな可愛いお茶目な方でした。手先が器用で手芸が大好き。当院でも毛糸で編んだ座布団カバーをいただいた事があります。

特に健康に問題があったわけではないのに、突然具合が悪くなり血圧が急降下、そのまま入院してICUへ。わずか二日で静かに眠るように逝かれたとのこと。通夜に参列し、お別れをしてきました。本当に眠っているとしか思えない安らかなお顔をされていました。

葬儀が終わって数日後、娘さんが二足の布草履を持ってきてくださいました。

「お母さんがね、入院する直前までたくさん作ってたの。『これはあの人に、あれはこの人に』って。まるで何かに取り憑かれたみたいに一生懸命。なにか感じてたのかしら? 形見だと思って使ってあげて」

裂いた古布をギッチリと編み込んだ布草履は、手に持つとしっかりとした重みを感じます。どれだけ丹念に手を掛けたかはすぐに分かります。私はうれしくて少し泣きました。長年の労働で測湾したおばあさんの背骨と、変形した膝関節を愛おしく思い出して泣きました。


私もすでに人生の半ばを過ぎたからでしょうか。“死”についてあれこれと考えることが多くなりました。以前は漠然とした恐怖を感じつつ、一方では『死んだ後のことなど自分には分かりゃしないさ』と薄っぺらいニヒリズムを気取ったりしていましたが、今はもっと具体的なイメージを持っています。とはいえ、もし明日私が死ぬとして、イメージ通りの死(いわゆる死因って意味ではないですよ)を迎えられるかと聞かれれば、それはそれで準備不足のような気もしています。それが誰にとっても死は突然だと言われる所以なのでしょうか。

死の瞬間に自分の人生に納得できる方がどれほどいらっしゃるのか、もちろん経験者は彼岸に去った後ですからお聞きすることもできません。現世で右往左往する私たちにとって、死とは永遠の謎なのでしょう。

ただ、ひとつだけ言えるとすれば、おばあさんが残してくれた布草履が、私の心に響かせたような『繋がり』を、私も次の世代に何かひとつでも残せればいいな、と感じました。


今の私は“死”について語る言葉を持ち合わせていません。自分を納得させるためもあるのでしょうが、最近は死について書かれた本をあれこれと読んでいます。しかしキューブラー・ロスから島田裕巳まで、いずれも私を完全に納得させてはくれません。唯一、私の実家の宗派である浄土真宗の葬儀において詠唱される蓮如上人の『白骨の御文』のみが、なぜだか私を安心させてくれます。理由は私自身にも分かりません。おばあさんには宗派違いだと怒られるかもしれませんが、最後にこの全文をここに書き写して彼女の冥福を祈りたいと思います。

山口のおばあちゃん、またね。
私もそのうちにそっちに行くから、
その時はまたお身体の整体をさせてね。


“白骨の御文”

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

1 件のコメント:

Satellite さんのコメント...

先生も浄土真宗ですか。

うちは本願寺派なので“白骨の御文章”ですね。昨年祖母が亡くなったので拝読しました。

8月で初盆と一周忌。
はやいもんだなあ。