2009年1月12日月曜日

失伝 〜修験道と整体術


富士市立博物館に『富士山の法印(ほうえん)さん-大宝院秋山家資料展-』という企画展を見に行く。かつて表富士(富士山の静岡県側)で宗教活動を行っていた修験道の行者(いわゆる山伏)の家から寄託された貴重な資料を展示したものだ。

山伏の装束や五鉆杵、三鉆剣などの法具、本尊である大日如来や不動明王の尊像、珍しい阿吽一対のカラス天狗像、信者に配った刷物の版木や朱印など、非常に興味深い展示だった。

役行者が開いたとされる修験道は、日本古来の山岳信仰に神道、仏教、陰陽道、道教などが混然と一体化した宗教で、それゆえに明治維新後の神仏分離令により一時期禁止されたこともある。展示された資料からも、そんな修験道の混沌とした顔を伺い知ることができる。

これらの資料の元々の持ち主である秋山家では、昭和50年代までは加持祈祷や地鎮祭を行っていたというが、残念なことに衣鉢を継ぐ者は現れなかった。この時点で、富士の修験道の道統はすでに絶えてしまっている。

文書や記録は数多く残っている。富士峯修行の細かい日程や作法、その際に唱える真言なども詳細な聞き取り調査が行われている。その通りに行えば……と思う人もいるかもしれない。しかし、それは無理な話。道統は作法や文書にあるものではなく、あくまで人の中にあり、人から人へと伝えるべきものだからだ。目の前に並ぶ資料群は、学術的好奇心は充足させ、歴史を垣間見せてくれるものの、もはやそれだけの品でしかない。興味のない人にとっては薄汚く雑多なガラクタの山にしか見えないだろう。

そんな展示物を見ながら、私はある感慨を覚えずにはいられなかった。

私が修行する南龍整体術は、関口流柔術という古流柔術の裏技として四百年間伝えられた技術だ。御宗家によると、ほとんどの柔術諸流派にこのような治療技術が伝わっていたという。しかし、現在その技術を残している流派は皆無に近い。なぜか?

人から人へ、師から弟子へと受け継がれるべき技術と知識の伝承が絶えてしまったからだ。一度途絶えてしまったものを取り戻す術はない。もちろん、日本整体術の資料は数多く残っている。その代表的な書物が江戸時代に発行された『正骨範』だ。日本における整体術のルーツのひとつとされる隠齋正骨術の技術書である。これには私たちが使う整体術に通じる、非常に効果的な手技が詳細に紹介されている。現代語訳版も発行されている。しかし、この本だけから往時の技術を復元させることは絶対に不可能なのだ。

私が南龍整体術を学ぶにあたり、師である寺西弘陽宗家から伝えられた最も大事なことは、言葉にも文章にもできないからだ。別にもったいぶっているわけでも秘密にするわけでもない。これだけは直接師より手ほどきを受け、弟子も必死になってそれを掴みとろうとしなければ会得できないものなのだ。書物や資料にはそれを伝える力はない。そして、それがなければ紙上の技法は活きた治療術とはならない。たとえ現代の最新とされる映像や動画技術をもってしても伝えることはできないだろう。そして、これは絶対に失ってはいけないものなのだ。一度失伝させてしまうと、もう二度と絶対に戻らない。残るのは抜け殻になった資料だけだ。

そんな夢想から覚め、ふと展示物に眼を戻すと、すり切れてボロボロの小さな冊子があった。文庫本ほどの大きさの紐綴じされた自家製本。表紙はなく、手書きで細かい字が書き連ねられている。赤い傍線が引かれているのは大事な部分だろうか。説明によると、酔いをさます法から歯痛封じ、下の病気から家畜の治療まで様々な民間療法を記してあるという。

これを書いた行者は、この小冊子を背負子の隅に忍ばせ、富士山麓の村々を訪ね歩く際に村人の願いに応じて治療行為も行っていたのではないだろうか。そんなことをふと思ったら、ここにあるどんな資料よりも法印さんを身近に感じ、その姿を見たような気がした。

富士山を背に村街道を歩く法印さん。富士峯修行を終えたばかりの汚れた装束で、低い声で真言を唱え、金剛杖を突きながら歩く。村人が野良仕事の手を休め、頭を垂れて手を合わせる。それは、もの言わぬ資料群だけが記憶している、もはや二度と戻ることはない遠い日々の幻影なのだろう。

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