2008年11月8日土曜日

見ぃたなぁ〜!

私の師匠である寺西御宗家から聞いた修行時代の話。

関口流柔術の先代宗家である富田先生という方は、柔術であれ、整体術であれ、技を伝える際に言葉での説明をほとんどされなかったそうだ。「今日はこの技を教える」と宣言されると、目の前で術を一回使ってみせるだけ。

「見たな」
「はいっ!」
「よぅし、ではやって見せい」

で、必死になって技を真似するも、先生からはなんの指導もアドバイスもない。良いも悪いも言わない。質問は受け付けない。というより、先生が怖くて質問などできなかったそうだ。

かつてはそのような指導法が当たり前だったという話を聞いてはいた。だが同時に、そんな昔話の残る現代武道(流祖は古流出身者が多い)では、実質的な術儀が失伝してしまっているところも多いのも知っている。

では、なぜ当流の場合は術儀の伝承がなされたのか?

脳と神経について調べていたら、その答えとなりうる記述を見つけた。人が動作をイメージする時、実際に体を動かしていなくても、その動作をつかさどる脳の部位が活発化するのだという。つまり、見取り稽古(今風に言えばイメージトレーニング)は『脳の中の体』を使った稽古といえるのだ。肉体を動かさずとも、意念の力で術儀を身に付けることができる。古の伝承者たちは、間違いなく、そのことを知っていたのだ。

もちろん、桁外れの集中力と観察力、ポイントを見抜く『目の付けどころ』の良さがなければ無理なハナシだし、それ以前に脳内で練った動きをアウトプットするために土台となる肉体を作っておく必要がある。当流でも『地下練り三年』といい、最低三年は流儀のための体を作るための地味で単純でキツい稽古を続けなければならない。

分かってるとは思うけど、ビデオやDVDを2〜3度見たからといって、どうにかなるもんじゃないってことは肝に銘じておいてほしい。

ちなみにこれは余談だが、小さな子供がテレビの特撮物を観ていて、ヒーローと一緒に戦いだしてしまったり、お気に入りのアイドルの振り付けをあっという間に覚えてしまうのは、こういった脳内のはたらきによるものなのだ。

ついでにもうひとつ。現代武道を修行していた時によく見た風景。指導者が皆の前でお手本を披露している時に一緒に技の動作をやりはじめてしまう者がけっこういたが、そういった連中は必ずといっていいほど技の勘所を見逃していた。これは個々の集中力の欠如もあるが、言葉に頼り過ぎた指導の弊害なのかもな。“耳で見て、目で聞く”ことができなければ、どんなに幾千の言葉を尽くして指導してもすべては無駄になるという典型例だったのかもしれない。

で、話は戻るが、寺西御宗家がおっしゃるには「今の儂の指導の仕方を先生が見たら『お前はアホか』と怒られるかもしれん」と。手取り足取り、時に流派の秘伝まで惜しみなく公開しているからだ。しかし、その御宗家の親身な指導のおかげにより、わずか三年という短期間でどうにか整体術が使えるようになれたのだから、弟子の私としては、今後御宗家が指導法を旧来の「見たな。では、やって見せい」方式に戻さぬことを心から願うばかりだ。

もちろん、そんな心配は杞憂でしかない……ですよね、御宗家?(^-^;

追記:いつもながら、画像は本文とは関係ありません。最近購入した素焼きの焼酎サーバ。中身はいつもの安い麦焼酎だけど、紙パックから注ぐよりもおいしく呑めるのは気のせいかな?

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